ニッセのこべや代表が、子どもたちと関わるなかで考えるあれこれ…








~「自分で決める」ということ(2016年1月)~

2014年と2015年の夏、デンマークの「森の幼稚園」を訪問しました。今回は、現地で見てきた実践の一部を紹介しながら、そこでの気付きとニッセのこべやでの活動を少し照らし合わせながら考えたことを書いてみようと思います。

「森の幼稚園」とは、園舎を持たず森を中心とした屋外の自然の中で過ごす、デンマーク発祥の保育形態です。近年、長野県を中心に、日本でもその実践が広がってきています。森の中の日当たりの良い場所でゆっくり過ごす日もあれば、リュックを背負ってみんなで移動しながら過ごす日もあります。一年を通して屋外で活動し、雨や雪の日も関係ありません。そんな日は、雨具を着たり、長靴を履いたりして出かけます。天気をはじめとした自然の中での多様な変化に、「自分たちが柔軟に対応していけば良いんだ」という考え方を子どもたちは自然に身に付けていきます。こうした環境の中で、小さなけがや失敗を財産にしながら、子どもたちはたくましく育っていくようです。

そのほか、子どもたちの様子で興味深かったことは、ちょっと変わった形をした木や岩、それから多様に変化する自然の現象に、特別な名前を付けていたことです。たとえば、木の葉の上の滴を「妖精の涙」と呼んでみたり、表面が窪んだ大きな岩の上に溜まる雨水のことを、「トロールのおしっこ」と呼んだりしていました。晴れの日が続けば「おしっこ」はないし、雨が続く日には溜まります。岩の前を通るたび、溜まっている「おしっこ」の量を確かめて、トロールが森の中で生活しているのだと子どもたち同士で話題にしていました。そして、岩の横に、草や土でトロールのための食事を作っておいておくこともありました。こんなふうにして子どもたちは、森の中で見られる現象に、森に棲む生きものの暮らしを重ね、想像を膨らませながら語っていました。先生方も楽しんでその話に耳を傾け、ときには先生自身も「森の妖精を驚かせないようにね」というファンタジーの表現を用いて子どもたちに静かにするよう促すこともありました。

自然が見せる現象について、科学的な知識をもって分析していく力ももちろん大切ですが、デンマークの森の幼稚園では、目に見えない生きものの暮らしに思いを馳せる想像力も重視しながら自然の変化を捉える傾向がありました。その理由を先生方に伺うと、「森ではどんなことが起きているのか、どんな生きものが住んで(棲んで)いるのか、目に見えないことも含めて子ども自身の言葉で考えを深めてほしい。そして、森に愛着や思いやりの気持ちをもちながら自らのふるまいを考えてほしい。」という願いをもっていらっしゃるようでした。 

森の幼稚園に限らず、デンマークでは、子どもたちが自分でものごとを判断し、自分で決める力が尊重されています。ただし、その「自己決定」は、決して自己中心的に、一方的な主張のもと勝手にふるまうということではありません。「自分をとりまく環境や、その環境に共に生きるものへの配慮の上に『自己決定』は成り立つべきである」ということを、森の幼稚園では「ファンタジー」の力を借りて子どもたちに伝えていたようです。

ニッセのこべやでも、できるだけ子どもたち自身がやりたいことを決めて過ごせるような時間を大切にしたいと思っています。でも、そうした自由の中でこそ、子どもたち自身が「みんなで共有している場所と時間である」ということにもっと目を向けられるような環境にしていきたいと振り返る機会にもなりました。自由な環境で、自分で決めていくということはとても難しいことだと思います。たとえば、工作の材料ひとつをとっても、自由に使えるからこそ、まわりの子どもたちに配慮しながら使う量を自分で考えて調節しなくてはならないし、最後の片づけまで責任をもってやることが求められると思います。簡単なことではありませんが、体験を通して子どもたちがそうしたことを学んでいけるよう、私もサポートの仕方をこれからも考えていきたいと思いました。ファンタジーの話に心が動く子もいれば、具体的な言葉で心が動く子もいるので、デンマークの森の幼稚園の実践は、あくまでも一例にすぎないとは思いますが、子どもたちの「自己決定」の背景にあるべき考え方を学び、また私だったらそれをどう子どもたちに伝えていくかな、と考えさせられる貴重な訪問となりました。



~「おもてなし」の心(2015年9月)~
夏休み中のイベントの数々も、たくさんの方のお力をお借りしながら盛況のうちに終えることができました。今回はそのうちのひとつ、「こども祭り」とその実行委員合宿での子どもたちの様子についてレポートしたいと思います。お祭りのコンセプトは、「子どもたちの子どもたちによる子どもたちのための…お祭り!」ということで、第1回目の今年は小2~小611名の子どもたちが実行委員を務め、お客さんをおもてなしするために前日からの合宿を通し作戦会議を行いました。

アイスブレイクゲームをして緊張がほどけてきたら、まず「実行委員ってどういう人のこと?」「どうなったらお祭りが成功したといえる?」など、実行委員としての自分の役割を考える時間を設けました。「お客さんが喜んでくれたら成功!」「お客さんが誰もけがしなかったら成功!」と、実行委員が判断したり決めたりする行動の軸にはお客さんへの心遣いが必要だよね、ということを確認し合いました。

そして、出し物の内容を決め、実際に必要な看板や道具をつくる時間。出し物の内容については、出せるだけアイディアを出した後、その中から場所や材料の制限をふまえて実際にできそうなものを選び、かたちにしていきました。「1円玉おとし」という私も初めて知るコーナーもあり、これには訪れたおとなの方も「おもしろーい!」と歓声をあげていらっしゃいました。また、魚つりコーナーでは、なぜか魚以上にカメが大量発生していたり…(^^)(しかも黄金のカメを釣った人はラッキーらしい)自分が担当するコーナーで子どもたちはそれぞれに発想力や創造力、ユーモアのセンスを光らせてくれました。

それから、お客さんが訪れたときのシミュレーションの時間。どうしたら、各コーナーでスムーズにご案内ができるか、上手く伝えられるか、言葉を一生懸命考えている子どもたちでした。また、来てくれたお客さん一人一人に宛てたTHANK YOUカードもすべて違うメッセージとイラストを描いてつくり上げていました。

いよいよお祭り開始。「こども祭りが、はじまるよー!!」と実行委員が声を合わせて最初のお客さんを迎え入れてから、4時間。ほとんどひっきりになしにお客さんがいらして、予想をはるかに超えて80人の子どもたち、おとなも合わせると約150人のご来場がありました。お客さんとして来てくれた仲間の存在に実行委員たちも刺激をもらい、背筋がすっと伸びたことと思います。最後の実行委員感想会では、「お客さんに『ありがとう』と言われたとき嬉しくて、いっぱい準備してよかったと思った。」「ふだんは交流できない年の子とも意見を出し合って、お祭りを完成させていくのが楽しかった。」「年齢の違う子に合わせて説明するのが難しいと思った。」「一緒に実行委員をした仲間の知らなかった一面を知れた。」と立派に今後の課題や今の思いを述べてくれて、そんな姿をとても頼もしく、誇りに思いました。

「お・も・て・な・し」―訪れる人を心から慈しみお迎えする。東京五輪を招致するプレゼンテーションの場で使われ瞬く間に日本中で流行語になりました。外国の方をおもてなしできるようにと、小学校での英語教育にも注目が集まりましたが、必要なのは言語だけではないと思っています。おもてなしをされる側の経験、する側の経験、その中で嬉しかったり、ちょっと嫌だったなと感じたり、自分だったらこうするなとやってみたり、いろんな体験と気持ちを味わって「おもてなし」の心は身につくものだと思います。普段のごっこ遊びなどを見ていても、子どもたちはもともとおもてなしすることが大好きなんだなと感じていました。こういう子どもたちの意欲やパワーがもっと発信できる場をこれからも設けられたらいいなと思います。さて、来年はどんな実行委員が集まるかな?今から楽しみにしています(^^)

~「本物っぽい!」ってどういうこと?(2014年7月)~

5~7月のニッセのこべやでは、病院ごっこが流行っていました。 クリニックで使わなくなった備品を譲り受け、おもちゃとして取り入れたこともありましたが、必要な道具がないとき、子どもたちは似ている物を探してきて代用したり、自分で作り出したりして遊びに取り入れていました。 毎回、病院ごっこのメンバーの入れ替わりはあったものの、取り入れられていくオリジナルの道具は回を重ねるごとに数が増え、レベルアップしていきました。 診察券、カルテ、白衣にはじまり、聴診器、点滴、血中の酸素濃度を測る器具まで!よくこんなもの知っているなぁ、よく見ているなぁと感心させられるばかり。 子どもたちがこれまでの経験から見てきたものを再現し、どんどん遊びに取り入れていくことで、さらに仲間が集まり、遊びが盛り上がります。 遊びのイメージが明確であればあるほど、必要な道具はより「本物」に近いものが求められるように感じました。 しかし、「本物らしい」と感じる部分がどこであるかは、そのときどき、その子ども一人ひとりによって違うようでした。 形や色といった見た目のイメージに「本物」を求める子どももいれば、その機能に「本物」を感じる子どももいます。
たとえば、血中の酸素濃度を測る器具であったら、色や形というよりも、「指を挟む」という機能に子どもたちは着目していました。 ニッセに遊び用のおもちゃの洗濯バサミがあることを知っている子どもたちは、それをその器具に見立てていました。 そのとき、たまたま患者として訪れた私は、「ちょっと検査をしますね。」と小さな女医さんによって人差し指に洗濯ばさみをつけられました。 おもちゃの洗濯ばさみなので、そんなに痛くないですが、小さな看護師さんは「痛くないですか?」と角度を確認してくれます。 そして、本物の器具同然に私の指にちょうどフィットして「挟む」という機能を果たしてる洗濯ばさみを見ては、納得したようにニコニコしていました。
点滴については、「透明」という色、そして「袋の先に中が空洞の細長いチューブがついている」という形に、ある子はこだわっていたようです。 最初に「点滴がほしい」という言葉が出てきたときに、チューブがなかったため「袋に毛糸を垂らしてそれっぽいものを作る?」と提案してみたのですが、案の定その子のテンションは上がらず…。 次回、透明の細長いチューブを見つけてきてそれとなく置いておいてみると、さっそく点滴づくりをしていたその子の姿がありました。
これらは、子どもたちが再現したい道具の何に心惹かれているのかに着目することが大事なのだなぁと感じられた出来事でした。 全てを「本物どおり」にすることではなく、「ここは外せない」というポイントを子どもたちになりにもっているようです。
ニッセの病院ごっこでは、なぜか人間が点滴している横で犬やあざらしも点滴されている…という現実にはありえない楽しい光景もありますが(^^)、 子どもたちなりの外せないポイントではしっかり「本物らしさ」が求められています。 その「本物らしい」と捉えるポイントも一人ひとり微妙に違っていて興味深いものです。 その子が、「本物」と感じる部分が表現できるように工夫しながら、代用できる道具を探し求めたり、一緒につくってみたりする体験を、私は大事にしたいと考えています。 その過程で、その子が日々どんなことにこだわって、興味を向けながら生活しているのかということの一部が見えてくるような気がしています。

~「つくる」「関心を寄せる」「考える」、そして「平和」(2014年5月)~

REMIDA”レミダとは、イタリアのレッジョ・エミリア市にある、廃材が集まる工場のことだそうです。 市全体で、廃材をレミダに寄付していて、市の学校や幼稚園の先生はここを自由に行き来でき、教育や保育で活用できる廃材を無料でもらえる場所です。 「レミダ」とは神話(ミダス王の話)にまつわる表現で、「命が宿る」という意味だそうで、現地の人々は、「捨てられてしまうはずのものに、もう一度命が吹き込まれ、 なぜここにあるのか意味づけされたとき、廃材たちは輝きだしてにぎやかに笑う」といいます。
「かたちのない混沌としたもの、あるいは雑然としたものから、何かを生み出す過程にはいくつもの学びがある」と、教育学者で臨床育児・保育研究会代表の汐見稔幸先生はおっしゃいます。 分かりやすいところでは、「つくる」ということを通して、道具の使い方を学んだりします。 他にも、「つくる」という体験を積み重ねていくことで、目に見えないいくつもの意識が子どもたちのなかに宿っていくというのです。 それは、いろいろ想定できますが、今回はその中でも、「先人たちが築き上げてきた文化や技術への気持ち」について、私が考えることを少し書きたいと思います。
例えば、「段ボール」を使って何かをつくろうとしたとき、きっと子どもたちは破りにくい方向があることや、中がウェーブ型の紙になっているということに気づきます。 実際にこのウェーブが段ボールの強度を保っているのですが、工作するうえで気づく、ちょっとした不便さや思い通りにいかない中で、先人たちの工夫や知恵に目が向くかもしれません。 …とはいっても、そのときはつくりたいものへの思いに集中して、段ボールの背景に思いを馳せる子はなかなかいないと思いますが…。 しかし、この体験はいずれ、段ボールという「物」を通して、向こう側にある世界と自分とをつなぐときの手助けになるのだと思います。 小学校の社会科では、文化や産業、物流についても学びますが、段ボールが実際に話題に挙がるかはわかりませんが、 このような多様な素材に触れた経験があるかないかで、社会科でそれらが話題になったときの「あー!そういうことだったのか!」というその物への価値付け、 その物を生み出した人への理解が変わってくるように私は思います。
冒頭に書きましたレッジョ・エミリア市の幼稚園で、日々アートに取り組む男の子は、こう言ったそうです。
「平和というのは考えるということ。」 考えないというのは「悪」で、この世で何よりも怖いのは「無関心」でいることなのだ、と彼は言いたいのかもしれません。 物や人にたいして好き苦手、あるいは理解できる理解し難いといった気持ちはあって当然です。怖いのは、どちらの気持ちも抱けない「無関心」でいるということを彼は意味しているように思います。 「平和」ということにまで結びつける彼は、本当に小さな哲学者だなぁ、と私は思わず詠嘆の声をもらしましたが、 ニッセのこべやでも子どもたちを見ていて「つくる」ということは、「いろいろな物への関心を寄せる」ということなのだと、日々感じています。 自分の手で触れて、はたらきかけて、「ああ、そういうことか」と、自分のものにしていく過程がここにはあるように思います。
学校での教育内容の調整においては、図画工作の時間が今後も減ってしまう傾向にあるのではないかと心配ですが、 ほかの教科で学ばなくてはいけないことが増えた分、どこかにしわ寄せは行くので仕方がないことなのかもしれません。 でもそうだとしたら、その分子どもたちの日々の生活の中では、「つくる」という体験を大事に残してあげたいものだなぁと思っています。

~ちょっとの怪我やけんかは、心の肥やし(2014年1月)~

最近、子どもたちのけんか、気持ちのぶつかり合いやすれ違いをどんなふうに受けとめ、関わっていくと良いのかと考えることがあります。 もちろん、子どもたちの年齢やそのときの状況によって、私の関わり方は違うけれど、どのような心もちでいれば良いのかなと、もやもや…。 そんなとき、見学していた保育園で出会った子どもたちのけんかと、その後のやりとりで感じたことがありました。
その日、4歳の2人は1本の木の棒を取り合っていました。 似たような棒は辺りに何本でも落ちているのに、どうしてもその1本の棒を手に入れたいようです。 そういう「こだわり」をなんだか愛おしく思いつつも、いつ止めるべきかなのかと、はらはらしながら身構えてしまう私がいました。 まずは傍へ行って「どうしたの?」と聞いてみて、「同じような形の棒を探してくる?」「順番に使うようにうながす?」「じゃんけんで決める?」その場面に出会った大人として どんな関わりをするのが良いのかなといろいろなパターンを考えます。
そのうち、片方の子が泣いて、けんかは終わりになりかけました。 そして、私と同じように近くで様子をみていた先生が、ようやく2人の傍らにそっと近づきました。 泣いている子どもを放ってはおけない子どもたちも、ひとりまたひとりと周りに集まってきました。
「2人ともこの棒を使いたくてケンカをしたみたいだけど、どうしたらいい?」
こんな先生の言葉がけで揉めてしまった2人だけではなく、まわりの子どもたちの頭のスイッチも入ったようです。 2人を囲んでいろいろな意見が飛び交った末、子どもたちが考えだした解決法は「2つに折ればいい!」でした。 けんかの原因の棒を足でバキッと2つに折り、両者に渡すという案が採用されたようです。 私は、長さが短くなってしまったのにこれで本当に2人とも納得するのかな、と疑問にも思いましたが、みごと2人とも短くなった棒を持ってニコニコと歩きだしたのです。 子どもたちの世界は必ずしも大人が考える「平等」とか「公平」だけで決められものではないのだと改めてはっとさせられました。 そして、見学した保育園の先生が、後からこんな言葉を教えてくれました。「ちょっとの怪我やけんかは、心の肥やし。」先の2人のけんかとその後の笑顔を見ていただけに、この言葉に大きく頷いてしまいました。
ニッセのこべやに集まる子どもたちの間でも、小さな揉めごとやちょっとしたハプニングはよく起こります。 でも、それをすぐに大人の方法で解決へと導いてしまうのはなんだかもったいないような気がしました。 子どもたちと過ごす中で私にできることは、まずは「ちょっとの怪我やけんか」と「危険!」をきちんと見極める目をもつこと、 そして前者のときは、決して解決を急かさずにゆっくりと皆でアイディアを出す時間を大切にしながら、「ニコッ」と出来る瞬間を見守ることなのかな、と今は考えています。


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